2017年5月 9日 (火)

キッカケが受精というワケでもないのだけれど

GW真っ最中に日本へ一時帰国していた。

今回は仕事絡みでもあったし、最近では
もうその必要性を感じないので、例えば
SNSで帰国を予告したり、特定の誰かに
その旨を伝えることもない。

元々友達は少なかったしほとんどが女子。
いつの間にか皆結婚し子持ちとなった今、
なかなか会える状況でもないのが実情だ。

そんな中、
唯一可能性があるH嬢のことを突然思い出し、
日本についてすぐに連絡してみた。その為にわざわざ
ケータイのプリペイドをチャージしてまでである。

「私、子供できたんだよ〜。今七ヶ月なの」
「マヂか!それは良かったなあ......」

そー言えば最後に会った時、不妊に悩んで
オレの同級生が院長をしている産婦人科で
カウンセリングをしていたんだっけ?
あれが一年ちょっと前か。
そこは割とソフトな感じだったらしく、
病院を変えてスパルタにしたら二ヶ月でできた、と。
どうやら卵子に問題があって受け付けなかったみたいで、
一度取り出し注射器で強制的に受精させ体内に戻したと。

まあ、とにかくおめでとうございます。


というワケで、遊んでくれる女子がついに居なくなった。
残念だけれど仕方がない。

しかし、今回はいよいよ
(戻って来るのもありなのかなあ?)と思えた一時帰国。

日本を出てから既に十年が経とうとしている。
オレの居ない間に何があったかは知らないが、
東南アジア諸国に比べれば相変わらず窮屈なのは間違いない。
それでも今となってはいくつか魅力的な部分もあって、
食べ物とか生活しやすさとかコミュニケーションとか。
スーパー銭湯だったり字幕映画だったり街の空気だったり。
逆にネガティヴ要因は花粉や規制や足の引っぱり合い社会。
いいところもあればやっぱり悪いところもあるんだよねえ。

でも、十年前と今とでは確実に気持ちが違う。
海外で過ごした時間が何かを変えたのだろう。

もちろんすぐにではない。
まだいくらかの準備が必要なのだ。

そして、チョイスはおそらく二つ。

タイか日本か。

ここで敢えて予告しておく。
6月末にまた一時帰国する予定だ。

そこで決まるだろう。

おそらく何もかもが。

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十年振りに届いたメッセージに思う

「憶えてないかなあ」


今度は女子だ。

そー言えば去年このブログのコメント欄にS嬢から
かなり久しぶりにメッセージが届いていたけど、
結婚して何年か経っていろいろあったりすると、
「ふ」と誰かに愚痴りたくなったりするものなのだろうか。

「おそらくヘルプの信号に違いない」と勘ぐって、
悩み相談受ける気満々で待機していたものの結局
オレのキライな某Facebookで友達になって以降連絡はない。
まあ、人妻が海外暮らしのじーさんと
メッセージのやり取りをするのに相応しい場ではなかったか。

そういった意味で某mixiはいいのかもしれない。

マイミクでもなくなったしmixi nameも変更したのに
いったいどーやって辿り着いたのだろう?という疑問はあるが、
とにかく、人目に触れないこのSNSは今だからこそ価値を持つ。
週刊誌にlineのやり取りを暴露されていた不倫カップルも居たが、
あんなに恥ずかしいことはないからなあ。

いや、無論バレる可能性はあるにせよ、
「イマドキ?」のmixiなのである。

ちなみにY嬢とは不倫どころかまったく何もなかったが。

彼女とは今から十年以上前に合コンで知り合った。と言っても
飲食店時代の常連客の大学の同級生であり共通の知人もいたので、
あまりおおっぴらに手出しはできなかった。
にもかかわらず一度デートした記憶がある。
何しろ、オレ好みの小柄でフワフワした可愛らしいコだったのだ。

まあ、アッサリフラレたけど。というか、
好きな男性がいたのではなかったかなあ。
いずれにせよこちらが好意を持っていたのは確かなので、
「愚痴や悩みならいくらでも聞くよ」と返信しておいた。

結婚して子供が二人できたそうだから、おそらく
子育てや夫婦生活についての件だろう。何もなければ
オレなどにわざわざ接触してくるはずがない。

てなワケでこのブログを読む可能性もゼロではないので、
記事を書きつつひとつの答えを出してみることにしよう。


オトナになってからの人生のチョイスとして
大きく二つ挙げるとすれば、
「独りで生きる」か「誰かと共に生きる」のどちらかであろう。
「生きる」は大袈裟だとしてもその生活はまったく異なる。
例えば結婚もそのうちのひとつであるが、
「自由気ままに暮らす」か「自分を犠牲にして誰かと暮らす」か。

そう。恋人や結婚相手や家族と一緒に生きるには
互いを犠牲にして譲り合うことが必要となるのだ。

オレのように、結婚生活はうまくいかず、
恋人とも毎回長続きしないような人間は、きっと
前者に向いているのだろうし、結果的に
自らそちらをチョイスして来たこととなる。

そして、当然逆の人もいるワケで。

個人的考えとしては互いを羨ましがるべきではないと思う。
問題は後者の方が、チョイスしてから
「やっぱりやめた」と言いにくい点だろうか。
よーするに、どこかの時点で前者を選んだ場合でも、その後
恋人を作ったり同棲したりすることは割と気軽にできるけど、
後者を選んで同棲したり結婚したり、ましてや子供ができてから
「独りに戻りたい」と思ったとしても、
状況としてはなかなか簡単ではない、という話である。

寂しがり屋かそーでないか。
人生の目的をどこに設定するか。
縛り合うか否か。
そこに愛はあるのか。など、いろいろなことはあるにせよ、
やはり、オトナになればどこかの時点で選ばねばならないし、
その後も何度か逆を試してみることになる場合もあるワケで。

先日亡くなった叔母は生涯孤独な人だった。

晩年は友達を何人も作って楽しそうに付き合っていたけれど、
長く飲食店を経営していた間ずっと独り暮らしだったし、
仕事一筋の人で、浮いた話も一切聞いたことがなかった。
そして、そんな彼女をオレは何だかカッコいいと思っていた。

妹である母親は逆に独りで居たことがない。
父、つまり連れ合いとは仕事中も一緒だったし、
彼を病気で亡くした後は割とすぐに
恋人を作って、一緒に暮らし始めた。
おそらく独りでは居られない人なのだろう。

決めつけはしないけれど、人間ってきっと
どちらかのタイプに分かれるのではないか。

ただ、人生の途中で考え方が変わる場合だって
ひょっとしたらあるかもしれない。
オレがこの先結婚して子供を作って
家族幸せに暮らす可能性も決してなくはないし、
幸せだったはずの母親が離婚して子供を手放し、
残りの人生を独りで暮らす可能性だってあるし。

いずれにせよ、

決めるのは本人なのだ。

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2017年4月28日 (金)

これだけさらけ出してして今更何が恥ずかしいものか

昔、と言ってもたかだか十数年前のことだが、
その頃の知人から突然連絡があったりするとちょっとビビる。


飲食店をやっていた当時は、店の宣伝の為に
いろいろなことをやっていた。

オープン当初は地元の雑誌社が毎月のように
取材に来て掲載してくれたし、目立ちたがりのオレは
恥ずかし気もなく露出し続け、長々と
インタヴューに答え喋りまくったものだ。
今思えばそれは一瞬だったが、時代の流れに乗って
ブームになったこともあって、壮大な目標を掲げつつ
根拠のない自信を持って完全に調子に乗っていたのである。

しかし、時を経てライバル店が乱立し、
飽きられ始めてからは集客に苦労する。

1999年3月にスタート。それからたった
6年で閉店するワケだが、後半でようやく
SNSが流行りだし、Facebookはまだメジャーではなかった。
だから、店の販促は相変わらず雑誌や
マンスリーフライヤーなど紙媒体が主であり、苦肉の策で
自らが広告塔となってラヂオ番組にレギュラー出演したり
挨拶廻りによる営業活動を行ったりと、地道なものだった。

そもそも、喫茶店にも関わらず
「スーパーフランクな接客」がウリだったし、一人で来る
カウンター族もたくさんいたりしたから、知り合いの数は
どんどん増えていって、ナゴヤなんてとても狭い街なので
徐々に身動きが取れないような状況に陥ってしまう。
例えば休日に若いコとフラフラデートでもしようものなら
翌日には既にその行動がバレていたりするのだから。

まあ、それは自分の性格によるところが大きいのだけれど、
世間のしがらみというやっかいなモノに捉われて、結局は
店を閉めた後、逃げ出すようにタイに移住することとなる。

実際、エラそうに
「ナゴヤをファッショナブルな街に変えてやる!」
などと吹聴していたので、実現できなかったのが
悔しかったし恥ずかしかった件もあるけど。

日本を離れてから十年程経つ。

「タイで何かやらかすのではないか?」と、
最初の頃は一部の人から思われていたに違いない。
しかし、現実的にはまったく何事もなくただ過ごしただけ。
ケーサツに捕まって世間を賑わさなかったのは幸いだが、
このブログに綴ってきた内容の通りまったくもって
お恥ずかしいとしか言いようのないくだらない日々だ。

尋ねられれば、仕方なく
「市場調査」とか「充電」とお茶を濁し続けたが、
それにしてはあまりにも長過ぎる時間である。
別に気にする必要もないのだろう。
でも、やはりちょっと後ろめたいという気もする。

ならばこんなブログなどやめてしまえばいいのに、
文章を書くことが好きなのでやめられない。あと、
世間との繋がりを少しは残しておきたいという思いも
ひょっとしたらあるのかもしれない。
結局、ダラダラと続けているワケで、ごくたまに
あの頃の知り合いから連絡があると、
「いったい何事か?」とビビるし、
「久しぶりにブログ読みました」などと聞くと、
とてもとてもとっても恥ずかしいのである。


SNSとはとても面白いし、興味深いモノだ。

馬鹿正直にFacebookに本名を登録しているので、
一瞬で見付かりメッセージも送られてくる。

しがらみがどーのと言っている割には7種類もの
SNSをやっているのはいったいどーいうワケか。
矛盾しているけれど、やはり他人と関わっていたから。
恥ずかしいと言いつつも、自分のこと、行動や言動を
誰かに知って欲しいからに違いない。

知り合いのFacebookやInstagramを見ていると、時々
(よくそこまでさらけ出せるな)と思ったりもするが、
何のことはない。オレも同じだ。もう若くはないから、
自撮りして写真を晒したりはしないだけの話であって、
発表し続ける限り私生活は他人に筒抜けなのだ。

少し前はコワイなと思う時もあった。
でも、今はもうそーでもない。数ある中で
どこで発表するかを選ぶだけ。

このブログについては、
タイという国に興味のある男子のみが対象だと思っていた。
まあ実際そーなのだろうけれど、その中には
元々の知り合いもいる、という件に気付いた。

だからと言って何も変わることはない。

今更そんなに恥ずかしがる必要だって
おそらくないのだろうなあ、と

ちょっと思っただけの話だ。

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2017年4月 9日 (日)

いきなりの身内の訃報に驚く

実は今タイに居る。

用件を詳しく説明はしないが、まあ
いろいろな準備の一環ということだ。

で、用事を済ませバンコクからパタヤにやって来たワケだが、
いくつか気になることがあったので、一応まだ続けている某
ウェブサイトの更新をしなくてはならないな、と考えていた。

「パヤタ総合研究所」という大袈裟なタイトルにも関わらず、
ハノイに移住してからは、物理的にパタヤの情報はほとんど
発信できなかったし、そのことで多少胸を痛めてもいたのだ。

しかし、いつものカフェでWIFIを利用すると、
ケータイに母親から叔母の訃報が届く。

つい五分程前であり、もちろん
少なからずショックを受けたけれども、
「通夜は明日葬儀は明後日」らしくて、
あまりにも急過ぎるので参列は断念し、
とりあえずこのブログに追悼の意を表したいと思う。

一般公開はしているものの、主な目的はあくまでも
自らの精神バランスを保つ為であり、所詮は
個人的な日記でしかあり得ないので、タイトルとは
かけ離れた内容でもどうかお許しいただきたい。


今年で80才になる叔母は母の姉。
リンパ系の癌を煩って数年前に手術しており、まあ
「いつかはこーいうこともあるだろう」と、
覚悟はしていたけれど、術後の経過は良好な様子で、
こんなに早く亡くなるとは予想外だった。

出身地の秋田からナゴヤに出てきたオレの母親と前後して、
同じ街で長い間暮らしてきたのだが、今更だけれど、
何故その地が選ばれたのかという理由を実はよく知らない。
知っているのは、幼稚園のセンセーだった母が
スクールバスの運転手だった亡き父と恋に堕ちたという話。

一方、叔母はほとんど浮いた話もないまま
喫茶店→炉端焼店→スナックという道を辿って、長い間
飲食業界で生きてきた。

天涯孤独は大袈裟だけれど、イメージ的には
独りでいることを良しとしている感じだった。
飲食店経営者の大先輩として尊敬していたし、
独りが好きな所にシンパシイを感じると共に
DNAを受け継いでいるような気もしていた。

「アンタは頼み事がある時しか連絡して来ない」
というのが口癖だったけれど、実際そーだったと思う。
幼い頃からとても可愛がってくれたし、
オトナになってからも変わらなかった。
無理なお願いをしたし、心配もかけた。
いろいろな面で本当にお世話になったのである。

明るい性格でファンキイな人だったが、
楽しい人生だったのは間違いあるまい。
苦労もたくさんしたはずだけど、
我々にそーいう部分は見せず、
独りで生きるオンナのプライドみたいなモノを
常に漂わせていたなあ。

想い出がいっぱいあるから、できることならば
お通夜で親戚達と語り合いたいのだけれど、
適わないのがとても残念である。

あとは、仲が良過ぎて仲が悪いというか、
微妙な姉妹関係だった母が気落ちしているだろう件が少し心配だ。

四姉妹の上から二番目と三番目だった叔母と母。しかし、
ファンキイな姉に対し妹は比較的しっかりしていたから、
どちらかと言うと母の方が姉のような存在だったのかもしれない。
とにかく、ハタから見るととても不思議な関係に見えた。
長い間近くに住んでいた件もあって、もちろん
お互いに頼り合っていたはず。ただ、正直に言うと
叔母の方が母親を必要以上に意識しているようにも見えたが、
今となってはもうどーでも良いことだ。


二十五年程前に父を亡くした時、
最初はまるで実感がなかったのに、しばらくしてから突然
「もっといろいろ話をしておけば良かった」と
激しい悲しみが襲って来たものだ。

近い身内の死とは、そーいうものなのかもしれない。

叔母は一人暮らしをしていたので、最近流行りの
「孤独死」というヤツである。

病気が発覚してからは永年携わった飲食業も引退し、
何人も友達を作って旅行に出掛けたり、一緒に
おいしいモノを食べに行ったりしていた。
孤独を愛していたワケでもないのか、と
少し意外だったものの気持ちはよく理解できた。

近所の人が心配してケーサツに連絡してくれて、
今朝方遺体で発見されたらしい。

いつ亡くなったのかは不明だが、
オレの夢枕には立ってくれなかった。

父親も癌、母方も癌家系。

ほぼ間違いなくオレも癌で死ぬのだろうなあ。
そして、当然のごとく孤独死することになる。

年を取ると、知り合いの死に
自分を重ねてしまうものなのだ。


Kさん。

こんなことになるなら、前回部屋に居候した時に
(実家近くの2LDKのマンションに引っ越してからは
日本に一時帰国する度居候させてもらっていた)
もっといろいろ話せば良かったですね。

いつまで経っても落ち着くことのない私のことは、
最後まで心配掛けさせたままでした。
まあ、これでも幸せに暮らしているので、
もう心配しなくてもだいじょーぶですよ。

どうか安らかに

眠って下さいね。

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2017年3月18日 (土)

またもややって来た人生の分岐点の前に立つ

今朝、恐ろしいモノを見てしまった。

55.3!

そんな数字にはもう何年もお目にかかったことがなく、
毎朝体重計に乗ってチェックするという、自ら編み出した
「通年ダイエット法」を長い間実践し続けるオレとしては
52kgのベスト体重から考えても
55のボーダーを超えるのはヒジョーに危険な領域とビビる。
1〜2kgならば楽勝だけれど、
3kg落とすのは少しばかり大変な気がするのだ。

近頃では53kg台を容認する傾向にあったとは言え、
気を許すにも程がある。

こーいう時、人間とはいかに
精神力に頼って生きているのかがよ〜く分かる。

いろいろあって人生がつまらなくなっていしまい、
「何もやる気が起こらない」状態に数ヶ月前から陥っているが、
あれだけ気遣っていた体重ですら
「もうどーでも良い」と思えるのだとしたら、ある意味スゴい。

ただ、このまま行って
100kgになった自分を想像すると吐き気がする。ということは、
まだそこまで重症ではないのだろう。

このような精神状態になるのはさほど珍しくもないので、
「しっかりしなくては」と自分を奮い立たせる術も知っている。
キッカケさえ掴めば何とかなるものなのだ。そして、
今回はそれが体重増だったのかもしれない。


霧雨の季節に突入し雨ばかりだった件もあり、
ヒマな時間にこのブログを読み返したりしていた。

開始から何ともう十年以上の時間が経つワケだが、
長い年月にも関わらず人としてまったくと言っていい程
進歩していないのには正直驚く。
あまりにも恥ずかしくなって消した記事も一つや二つではない。

それでもまあ、自らのモットーである
「楽しく生きる」ということについてはブレていない気もする。
楽しいと感じるかどうかは人によって違うし、例え
レヴェルが低いとしてもそこだけはどーにも譲れない。だから
「楽しくない」と感じ始めると精神力は一気に堕ちていき結果
「何もやる気が起こらない」状況となるのだった。

「楽しくない」→「岐路に立つ」→「方向転換」。

考えてみればオレの人生はこれの繰り返しだ。今までに
数えきれない程何度も分岐点を経験してきたではないか。

例えばここ数年間の出来事でいえば、
バンコクからパタヤに引っ越したり、あれほど愛した
タイを出てヴェトナムに移住したりとかね。

あれで良かったのか?などと一瞬でも考えてはいけない。
過去を振り返り後悔するというナンセンスなことはせず、
いくつかの選択肢を入念に検討し行く道を決定するのみ。

間違いないのは、今まさにその
分岐点に立っているということ。

さて、次はどーするか。

妄想の日々は続くのだ。

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2017年2月 8日 (水)

知り合いの突然の訃報について

ひょっとしたらそんな必要はないのかもしれないけれど、
少し責任を感じてしまう。

S氏が亡くなったのを知ったのは数日前。
享年六十二才。タイで仕事をしようと模索していた時に
とてもお世話になった方であり、同じくお世話になった
タイの大先輩が日本からメールで知らせてくれたのだった。

氏はタイにて二十年以上家具関連の仕事をされていて、
興味を持った私にいろいろと教えて下さった。
「しばらくしたら引退するつもり」と、日頃から
口癖のようにおっしゃっていたが、ほぼお一人で
様々な内容の仕事を精力的こなす姿を見て
(自分にはとても無理だな)と思っていたし、
廻りに敢えて宣言もしていた。何故ならば
「誰かに引き継ぎたい」といったようなニュアンスを感じたからだ。

それはもちろん私の勝手な解釈であったけれど、もしもこちらが
「是非やらせて欲しい」と意思表示をしたならば
喜んで受けてくれたのではないか?と想像するし、
責任を感じるのはその辺りの経緯からなのだった。

三年程前だろうか。

あの頃のオレは、無職生活を何とか抜け出さなくては、と、
心の悪魔と懸命に闘っていた。根っからの怠け者であり、長い間の
何もしないゆる〜い生活がすっかり染み付いてしまっていたから、
仕事を再開することが容易でないことは充分承知していた。

タイでのチョイスはかなり少ない中、
せっかくならば多少でも興味があることをやりたくて
選んだうちのひとつがインテリア関係で、
経験などほとんどない中地元の知り合いのツテを辿り、
何とか収入になりそうな道を探って来た。この年で今更
サラリーマンはキツいと思ったし、家族もなくタイで暮らすのに
必要なだけ何とか稼げないものか、と淡〜く考えていたのである。

実質二年程の時間を要したものの、結果的には断念した。

理由はいくつかあるけれど、やはり
知識があまりにも少なく勉強することがたくさんあるだろう件に対する
不安が一番大きかったかもしれない。
年齢から考えても新しい分野の開拓というのは
かなり思い切ったチャレンジに思えた。そして、
もうひとつの大きな理由は取引先となる予定の
日本側の会社に対する信頼が揺らいだ件であった。

一昨年の終わり頃にハノイからの話があって、それをキッカケに
最終的には諦めてしまったのだけれど、実際問題相当悩んでいたので
「渡りに船」とばかりにこちらに飛び移ったような気がしなくもない。

今、まったく畑違いの仕事をメインにしているのは皮肉だけれど、
人生何が起こるか予測がつかないものだ。

S氏はとにかくパワフルな人だった。
ゴルフが大好きでお上手だったなあ。

あのままタイに残って家具関係の仕事をしていたら
どーなっていただろう、などと考えても仕方のないこと。
S氏の仕事の負担が減ってもっと長く生きられたのかもしれないし、
そんなの影響ないのかも。

そー言えば父が亡くなったのも六十二才だった。
平均寿命から考えれば早いけれど、自分に当て嵌めてみれば
なんとな〜くそれくらいでいいかな?と常々思っている。

幼少期の十代、青年期のバブルだった二十代、
独立した三十代、無職の四十代。
六十二才で死ぬとすればあと十年か。

どちらにせよ晩年になるであろう五十代は
いったいどんな十年なのか。

知り合いが亡くなるといろいろなことを考えてしまうものだ。

心よりご冥福を

お祈り致します。

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2017年1月21日 (土)

日本語字幕付き洋画DVDが今後の人生にどれだけの影響を与えるのかということ

「マヂかよ!」

あまりのショックにしばらく呆然としてしまった。
これはひょっとしたら今後の人生を左右する
とてつもなく大きな出来事なのかもしれない。

何とバンコクにあるDVDショップ某
「G-STORE」が映像関連のサーヴィスをやめてしまったのである。

「映画大好き」の私は、今までにいったいどれだけの
DVDを同店でレンタルもしくは買い取りして来たことか。

まあ実際問題、映画やTV番組の著作権を考えれば
イリーガルな件は充分承知の上利用しいたし、
いくらユル〜いタイとはいえ
「いつかこんな日が来るのだろう」とは薄々勘ぐってはいた。
しかし、それが現実となった時の心理状況までは
想像もつかなかったし予測もしていなかったのだ。

正直相当に痛い。
日本語字幕付きの洋画DVDなど
海外では易々と手に入るモノではないのだ。例えば
アメリカのTVドラマならば中国では稀に存在するのだろうけれど、
タイやヴェトナムにそれらがあるとは到底思えない。

マズいなあ。ヒジョーにマズいぞこの状況は。

来週タイに一時帰国するので大量に仕入れて来よう、と
ずっと楽しみにしていたのに、
今日サイトを開いてみたらお知らせ画面になった。日付を見ると
もう半年も前のことだったようだ。

http://www.d-store.tv

てことは今後新作の洋画を観るとすれば
チョイスの幅は絞られるワケで。

①映画館で現地字幕もしくは吹き替え版の作品を観る。
②DVDを手に入れて現地字幕もしくは吹き替え版を観る。
③日本帰国時に映画館で観る。
④日本帰国時にレンタルDVDを観る。

あーもー今正直かなりしんどいし、ちょっと
日本に帰りたくなってしまうではないか。

ただ、帰って何をするかという話だ。

この年で仕事なんてないし。給料安いに決まってるし。

ま、TVというかヴィデオさえ観られればいいから、
住むのはどこでもいいのだが。
あとは食材を仕入れられるスーパーと
サウナもしくはスーパー銭湯が近くにあればよい。
どこか田舎の家賃が安い部屋でひっそりと
つつましく暮らしていけるくらいの収入なら
ひょっとしたら稼げるかも、とか。

(それはそれで楽しいのかもなあ)
などと思ってしまう自分がコワイ。日本のことを
あれほど嫌っていたにも関わらずである。

元々そこまで気紛れなタイプではないと自分では思っているけれど、
人の気持ちなんてコロコロ変わるモノだし、
先のことなんてどーなるか分からない。

日本語字幕付き洋画DVDがそんなに大事か?

ハノイに来てからも家で時間があれば
手持ちの映画を観てばかりいる私としては、実際

とてもとてもとーっても大事なんだよなあ。

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2017年1月15日 (日)

さすがにもう色恋に踊らされることはないだろうな、と思う

カラオケ嬢はやはりカラオケ嬢でしかない、
ということなのだろうか。


ハノイに来てからまったくと言っていいほど遊んでいない。

まあ仕事で来ているのだから仕方がないけれど、それより
「何して遊ぶ?」という話である。

恐ろしいほど娯楽のない街
ハノイ。ハワイと字ヅラは似ていても中身は雲泥の差だ。

若いカップル達が何をしているかというと、まあせいぜい
映画を観たりカフェでダベったりくらいだろうか。しかし、
基本普段からかなりイチャイチャしているイメージが強く、
バイクで移動中もピッタリ引っ付いているし、夜になると
ライトアップされたホン川に掛かる大きな橋で、
路上にバイクを停めて盛大にキス祭り?が開催される。

以前大学で日本語を教えていた時も、
各所に置かれているベンチは愛を語り合う男女で一杯だった。
某○イグェン大学は在籍生徒数一万人越えのマンモス校であり、
しかもキャンパス内に寮があったから、当然のごとく
学生同士の恋愛は盛んなのだろうね。

羨ましいというか妬ましいというか、とにかく
「若いっていいね〜」と平均年齢28才の現実を
目の当たりにするのだった。

さて、遊びと言っても夜のシモの方はどうなのか。

観光地のホーチミンと違って本当に何もないハノイ。
主に日本人を相手にしたごく一部のカラオケと、
エロありのマッサージくらいだろうか。ちなみに、
通常のカラオケ店は日本の飲み屋さんと一緒でいわゆる
「お持ち帰り」はできない。
売春に関しては公安がものすごく厳しいらしいのである。

一方で、個人売春が盛んなハノイではどうやら
「SNS」を利用した取引が活発なようで、中国発の
「WeChat」とか国産の
「Zola」などがよく使われているみたい。

オレも実際何度か捕まって数人のお相手をした。

「美人局」がコワくて最初はものすごく警戒したけれど、
どうやらその辺りはまったく問題なさそうな雰囲気で、実に
あっけらかんとしたものだった。

外国人相手の相場は100万ドン〜150万ドン程度か。
ヴェトナム人同士なら4〜50万ドンらしい。
管理売春市場で140〜200ドルであることを思えば
お値打ちと言えなくもない。

内容はどうか?と言えば、これはもう万国共通であり、
若ければアッサリ、ヴェテランなら濃厚という縮図に
大きく変わりはないのだろう。

方法は至ってシンプル。
マンションやホテルに部屋さえあればまったく問題はなく、
ホテルの場合だと入り口でIDの提示を求められるくらいか。

ただ、聞くところによると、
夜十時以降に男女が徘徊していると、公安から
売春を疑われて職質を受けることもあるようで、
「フツーの恋愛です」と証明できないとマズいことになりそう。

やはり社会主義国なりのコワさは確実にあるな。

では、
「連れ出しのできない通常のカラオケはどうなのか」と思い
「WeChat」で引っ掛けられたコの店に一度だけ行ってみたが、
「色恋」に持って行かれるのは想像通りで、
同伴だとか指名を稼ぐのがホステスの目的である件は
やはり日本と一緒なのであった。

違う点があるとすれば、それは
結婚目的の嬢に捕まるケースが多いらしき件。まあ、
本国に行けるのであれば日本人は格好の標的なのは間違いない。

逆に、若くしてハノイにやって来る駐在員が結婚相手に選ぶのは、
ヴェトナムガールが基本真面目で貞操観念が強いのも理由だろう。
そこにはおそらく
古き良き地代の日本女子と通じる何かがあるのでは?と、
個人的には思うが実際はどーだろう。

相当長い間メッセージのやり取りで育て続けたV嬢とも、
結局は一度会っただけで終了だ。
本気で付き合う気があれば話は別だが、
結婚相手としては少々荷が重そうなキレイなコだったからね。

とにもかくにも、
夜遊びするならばこれほど面白くない街も珍しいのではないか。

テト休暇で六日間パタヤに帰った時、

その事実を肌で感じるのに違いない。

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2017年1月 5日 (木)

楽しくない人生に慣れていないからなのだろうか

ハノイでの新しいビジネスが始まり、しかも
二つのカテゴリーが同時進行ということでしばらくの間
無職だったオレとしては正直手に余る状況が続いている。

海外で何かを始めるというのは簡単ぢゃない。

そんなの当たり前の話だけれど、残り少ない人生を
成長著しいハノイに賭けてみようとやって来たのだから、
少なくとも五年はここで頑張ろう、街の発展を見届けようと、
相当苦労するのは覚悟の上だったのに。

それなのに。あー
それなのにそれなのに。

もう既に挫けそうな自分が情けないやら悲しいやらで、
精神的にはかなりよろしくない。

こんな時こそ文字にしてスッキリしようと、
逃げ場を求めてココに辿り着いた。


理由はいろいろある。

まず働き過ぎだ。

年末年始の過ごし方がヒジョーによろしくなかった。

実際問題、ヴェトナムの正月はテトであり
今月末にまとまった休みをもらうつもりだ。

しかし、今までの人生でずっと大晦日年越し新年をひとつの
区切りとして迎えて来たオレとしては、このあまりにも
「ふわ〜っ」とした年末年始がどうにも気に喰わない。

そもそも十月の終わりから一日も休みなく働いており、
しかも最近は朝六時半起きで夜までキッチリ仕事。一応
元旦は休んだものの夕方から事件発生でゆっくりできなかった。

洗車工場の立ち上げが本格的になったここ半年くらいは、
平行して飲食店の新規オープンもあった為とても大変だったし、
役員という立場で当然プレッシャーも相当な上、
パートナー達が皆体育会系で身を粉にして働くので、
当然のごとく同じようなテンションで毎日仕事することになる。

おまけにいかにもヴェトナム的なとんでもない事件の連続であり、
まともな精神でやっていけるはずもない。

元々が三年寝太郎並みの怠け者気質であるこのオレ。
こんなに働いた経験は初めてだし、仕事が終われば
家に帰ってバタンキュー。寝ても寝てもまだ眠い
という日々が続くとさすがにツラいのである。

もうジジイなのだからマヂで勘弁して欲しい。

まあこれはただの愚痴だ。
仕事とはそーいうものなのだから仕方がない。

ただ、週に一度くらいは休みがあって
「オン」「オフ」の切り替えができなければ
良い仕事はできない、と思うが如何だろう。

次にヴェトナムという国のルールというか体質。
外国人に対しては徹底的に搾り取る。日本という国からは特に。
尊敬しているフリをして利用しまくり必要なくなればポイ捨て。

分かってはいるけれど、実際目の当たりにするとやはりキツい。

「逆に利用してやる」くらいの気概がないとやっていけない反面
「自分もいつかは」という恐怖も常に裏側にある件を意識しつつ。

あとは現地パートナーとの信頼関係。

結局はコレが一番大事なのかもしれない。

飲食店の方はともかく、
もうひとつのビジネスはちょっと期待が持てる。しかし、
規模が大きく現地相場とのギャップも大きい現状を考えると
今後数年は相当な苦労を要する日々が続くのは間違いあるまい。

果たして保つのだろうか。と、自分でもちょっと
マズ〜い感じになってきている。

なんだかんだ言ってハノイのことは好きなのだ。

若者ばかりだしカワイコちゃんも多いし、
野菜もミルクもヨーグルトもチーズもプリンもウマいし、
ワインは手頃な価格で手に入るし、
夏が異常に暑いのと街が常に埃っぽい件は仕方がないとして、
気候もまあそこまで悪くはないし少なくとも日本よりはマシ。

ただ、接客ルームでずーっとタイポップを聴いていると、
パタヤのことが無性に懐かしくなる。こんなことならば
日本からもっとCDをたくさん持ってくれば良かったなあ。

いや、それはそれで日本のことが恋しくなるのだろうか。

いずれにせよここ数ヶ月が勝負だろうな。

とにかく今は人生が楽しくない。

オレにとってそれはヒジョーに

よろしくないことなのであった。

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2016年11月30日 (水)

日記というモノが人生に及ぼしてきた影響は小さくないのかもしれない

その昔はアナログな日記を書いていた。

いわゆる日記帳的なモノに完全自筆で
毎日のように出来事を綴っていたのである。
あまり日にちが開くとおっくうになるから、と
せっせと書き続けてはたまに読み返すのが楽しかったものだ。

内容はヒジョーにくだらない。

主に女子とデートした時の内容だったり心情だったり。
若い頃は仕事以外に考えていたのは女のコのことばかりだったし、
容姿に自信のないオレはせめてファッションで、いやそれよりも
口先三寸で勝負するしかないと勝手に思っていたから口説き方の
テクニックを磨く必要があったし、相手の反応のパターンその他
研究内容やら成果やらを何かに残しておこうと考えたのだろうか。

バブル時代などはデートの相手に困らなかったし、
二十歳の頃に一人の女子に思い切り裏切られてからは結構長い間
女のコに対して強い復讐心を持ち続けていたので、そんな風に
チャラチャラと遊ぶことで少しは救われる気分だったのかもしれない。

と言ってもモテたワケではないので、
可愛いコと寝るまでは随分苦労した。だからこそ
日記を読み返すのが楽しかったのではなかろうか。

その間に結婚して離婚も経験したけれど、
女のコに対する考え方はあまり変わらなかったし今でもそうだ。
自分に都合の良い時だけの何らかの欲の捌け口でしかない。

真剣にお付き合いした相手などほとんどいなくて、
仮にそうなったとしても
「デリカシイがない」と散々責められて最終的には
「一人でいる方が楽しいんでしょ!」と捨てられる。

ごくたまに努力してみようと一応試みるのだけれど、
結局は無駄骨に終わってしまうというワケだ。

いったい何が楽しかったのだろう。

「この人になら抱かれてもいい」だとか
「まあしょーがないから寝てやるか」などと
相手に思わせるまでのプロセスかもしれない。
そこに辿り着くまでに苦労すればするほどに
味わう達成感は格別なものがあった。んな

そこまでセックスが好きではなくむしろ淡白な方だ。
だから一度きりで終わるパターンがほとんどだった。

と、ここまで書いてみてあらためて自分でも
「なんとヒドいヤツだ!」と思う。
どれだけ薄っぺらい人生を送ってきたのかと。

ただ、今更そんなことを嘆いてみたところで
どーしようもない件も知っている。
精神的にはガキのままでも
実際は充分なオトナなのだ。


SNSの存在を知った時には飛びついたし、
見事なまで完全にハマった。

電子日記!何と素晴らしい。

本来秘密であるはずの日記を他人に読まれる、
読ませるというある意味非倫理的状況は
「覗き」と似ているのではなかろうか。
覗く方も覗かれる方もその内容が
エグければエグいほど快感なのだ。

自虐という手法が、オレにはピッタリだった。
自分がダメ人間であるが故その部分を曝け出すことによってまるで
禊のような気持ちになる。

面白おかしく滑稽に表現すれば少しは許されるのでは?
しばらくはそんな大いなる勘違いの世界で生きることとなった。

考えてみれば、恐ろしいほど莫大な数の文字の羅列である。

最初mixiでスタート。2005年9月のことだ。その後
このブログを平行して初めて実に10年間続いている。
記事数943件。スゴいな。

その時既に四十才だったにもかかわらず、
やっていることは昔とほとんど変わっていない気がする。

いろんな女のコ達ととにかく会話して、
できっこないことは分かっていても恋に恋して撃沈。

しかし、こーやって振り返ってみれば
けっこう楽しい時代もあったのである。

飲食店をやっていた時は本当に色んな人達と出会えたし、
オモロイ出来事がたくさんあった。
そー言えば今もやっているのだが、当時とは全然違うぞ。

ま、それはいいとして、
その時その時で目的は違えど長らく書き続けた日記。

何が起ころうときっとこれだけは続くんだろうなあ。

完全にボケた末に、日記という

存在を忘れてしまわない限りは。

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